小沢健二「LIFE再現ライブ」に参加して考えたこと ⑤


5.再現その②「ぼく旅」という魔法と駄々をこねる小沢

 

絶対的名曲「ぼくらが旅に出る理由」、この曲は何度聴いたか知れないが、何度聴いても鳥肌が立つ。『LIFE』の曲はどれも生きていること、存在していることを無条件・無根拠に肯定する(「全肯定」という言い方がしばしばされるけれど、私はあまり好きではない。肯定する者の主観的状態に注意が向いているように感じられるから。そうでなく、世界の客観的状態としての意味ある生を確保するものとして理解したい)力がある作品であるけれど、中でも「ぼくらが旅に出る理由」がもっともその力に満ちていると思う。

 

その仕組みについてきちんと論じるとものすごく長くかかってしまうので手短に論点をまとめれば、核となるのは「美しい星におとずれた夕暮れ時の瞬間 せつなくてせつなくて 胸が痛むほど」を聴くときに聴き手に訪れる、一人称的視点と三人称的視点とを重ねて世界を直観する経験である。一人称的視点では幸福に満ちた恋愛のさなかで、すべての物がただ存在しているだけで肯定されるべきものとして見られる。この作品の中ではその幸福に満ちた生と存在を、地球の外、宇宙空間に設定された客観的視点からたびたび反省的にとらえるのだが(「遠くから届く宇宙の光 街中で続いてく暮らし」など)、しかし決して存在を肯定する力を奪わせはしない。そして「美しい星・・・」以下で、全存在を視野に入れ、その滅びを直観する最大限にひろい視野を持つ視点と、それを世界の中の「いま・ここ」の地点から捉える一人称の視点を重ねることで、一人称の視点から捉えられる存在に対する肯定が世界全体に拡張される。

 

きちんと筋道立てて書こうとするとめちゃくちゃややこしく長くなる洞察を、本当に平易な言葉(たとえば「流動体について」や「神秘的」と比べてみるとよい)で、10分もかからない歌で聴き手に届けてしまう。どうしてこのような離れ業が可能になったのか、本当に魔法としか言いようがない。

 

演奏が終わった後、オーケストラだけで曲の主題を利用したちょっとした変奏曲が演奏された。これがまた素晴らしかった。この日のために服部隆之が書いたようだ。「ぼく旅」だけでなく、「ドアノック」と「ラブリー」でも同じ趣向の演奏がなされた。この一日だけ演奏される作品を聴くというのはなんとも贅沢な経験である。だがやはり何度も聴きたいとも思うので、服部氏にはぜひ他の曲のも書いて「『LIFE』の主題による変奏曲」として発表してほしい。ぜひレコードも出してほしい。ファンは絶対買うし、ヘビーローテーション間違いなしになる。

 

ライブではアレンジが変わったりサビの繰り返しがあったりで長くなることが多いが、今回は録音にほぼ忠実な演奏だったのでものすごく短く感じた。同じことは「今夜はブギー・バック(nice vocal)」にも言える。久々に「16小節の旅のはじまり」って聞いた。「スキーっ」って叫ばなかったのも久しぶり。ひょっとすると初めてかもしれない。そしてびっくりしたのは、この作品でフェード・アウトまで再現したこと。舞台最上段で小沢が姿勢を低くしていくのに合わせて、音が小さくなっていく。スピーカーの音を絞るだけではああはならないから、演者自身が音量を下げていっているはずで、実際にやるのは相当大変なのではないか。

 

「ドアをノックするのは誰だ?」も録音に忠実な演奏で、私の席からもかろうじて舞い踊る指揮者が見えた。録音通り、またもやフェード・アウトかと思いきや、いきなり小沢が「いーやー!」と言い出し音楽が盛り返したのには爆笑した。それに臨機応変に対応する演者たちの演奏力はさすがと思うが、子どもなのに絶対的な王様である小沢が駄々こねて大勢の大人を振り回しているようで、すごい風景だった。

 

「ドアノック」の変奏曲は、原曲が明るさの極みのような作品なのに、憂いの表情があるもので、編曲のすばらしさが際立っていた。コンサートマスターによるヴァイオリンのソロも、クラシック的というより「ジプシー」的と言いたくなるような郷愁を感じさせるものだった。