小沢健二「LIFE再現ライブ」に参加して考えたこと ④


4.再現その①おやすみ猫ちゃん

 

それでついに『LIFE』の再現が始まったのだが、意外なことに逆順で演奏された。つまり「いちょう並木のセレナーデ(reprise)」で始まり、「愛し愛されて生きるのさ」で終わる。最後が「愛し愛されてい生きるのさ」であることはWebで予告されていたけれど、それはアンコールの話をしているのだと思い込んでいて、完全に予想外のことにおもわず「えーっ」と言ってしまった。

 

で、その一曲目、自分の席からは小沢が横向いて、なんか木の箱みたいなのを触っている様子としか見えなかったのだが、どうやらオルゴールを手で回して鳴らしていたようだ。結構大きいので、キーボードかなんかだと思っていた。

 

続いて、ライブで初めて聴く「おやすみなさい、仔猫ちゃん!」。この曲は今後「おやすみ猫ちゃん」と呼ばれることになるだろう。冒頭に入っている篠つく雨音、子供たちの「Where do we go? Where do we go, hey now?」も含め、ほぼ完全に再現された。オーケストラの演奏も強力。録音と比べて特別に何かをしているわけではないが、こういう言い方をするのは何だけれど「こんないい曲なのか!」と認識を新たにした。

 

『LIFE』を聴くときには、いつもこの曲の前の「ぼくらが旅に出る理由」で感情が昂ぶりすぎてしまって、「おやすみ猫ちゃん」はほっと一息ついてくつろげる聴ける作品として聴いてきたのだが、あらためて「小沢健二印」がしっかり刻印された名曲だと思えるようになった。ずっとこの作品の詞は、恋人にやさしく語りかけているものとしか受け取っていなかったのだが、『LIFE』以降の作品群を経験した現在ではもっと奥行きのある歌として受容できる。たとえば「生まれたての蝶が 羽をひろげ飛び立つ こっそり僕が見てた 不思議な物語」のところは、「いちごが染まる」で歌われている自然や生命の神秘と重ね合わせてしまうし、「夏の嵐にも冬の寒い夜も そっと明かりを消して眠ろう またすぐに朝がきっと来るからね」のところはもちろん「フクロウの声が聴こえる」での、これから喜びや楽しさだけでなく、恐ろしさや悲しみにも満ちた世界の中に踏み込んでいく子どもに対する励ましを反映させてしまう。

 

94年に作品が発表された時点で、ここまで意図して詞が書かれたのかどうかは分からない。たぶん意図していなかったのではないかと思う。けれどもあの若さで、時間と経験の蓄積の中でそのような厚みのある新しい意味を担いうる言葉を書くことができていたことには驚かされる。そのようなことが可能になる理由の一つは、自分の思想や感情を直接表出しようとするのではなく、世界とのつながりの中を見ているような言葉、世界の中から意味を拾うような言葉で書かれているからではないだろうか。人間の心も相当広くて深いものだけれど、世界の方が圧倒的に広い。しかも考えたことや感じたことを言葉にしてしまうと、心は相当限定されてしまう。しかし世界の中で私たちが出会うものごとや状況は、それ自体としては同じものとしてありつつも、その意味、含みを変えることができるような余白(「ノイズ」と言ってもいい)を豊富に持っている。こちらの成長や変化によって、新たな意味を見出すことを可能にしてくれる。小沢の詞の卓越性のひとつは、このような、多様な意味を託せる事象を的確に世界の中から拾ってくる能力(しかもそれは多様な意味を包み込みうるが、しかし「ひとそれぞれ」といって各人に発散してしまうようなバラバラな意味ではなくて、複数の人がちゃんと「分かる!」、「自分もそう思ってた!」と共有できるような意味)にあると思う(この観点からして驚くべき作品は「夢が夢なら」だと思うのだけど、残念ながら今回は演奏されなかった。オーケストラも渋谷さんもいた絶好の機会だったのに、残念だ)。

 

このような、現在から過去へと遡るような聴き方をしてしまったのだが、逆順で演奏されたこともそれに関係しているのかどうか、自分ではよくわからない。どの曲の後のMCだったか、「クリストファー・ノーランの映画みたいに記憶を巻き戻して」って話が出てきたのだが、『LIFE』再現部分を聴いているとき、まさにそんな風にして、現在から94年にぐいーんと気持ちが巻き戻ったり、現在に帰ってきたりしていたので、その影響もあるのかもしれない。