小沢健二「LIFE再現ライブ」に参加して考えたこと ②


2.「天使たちのシーン」から「大人になれば」まで

 

盛り上げるだけ盛り上げておいて、ここで小沢からおなじみ「総座り」の指示が入る。スチャダラパーが登場し、「サマージャム95」のコール&レスポンスをしてくれた後、「天使たちのシーン」が始まった。おそらく当日会場にいた人の多くが、この「天使たちのシーン」とその次の「旅人たち」を、『LIFE』以外の曲を演奏した前半のクライマックスと感じたのではないか。そう推測したくなる演奏だった。

 

「天使たちのシーン」はオリジナルが13分もあるせいで、ライブで演奏される場合はところどころ省略されることがあるが、この日はスカパラホーンズの3人(NARGO、北原雅彦、GAMOU)、沖祐一、中西康晴、そして小沢自身のソロも含め、省略ぬきで(オリジナルよりも長かったかもしれない)演奏された。自分以外のソロが演奏されるときに演者を小沢が紹介していったが、その中には、本当なら今ここでドラムを叩いていなければならなかった青木達之の名も含まれていた。

 

私には、『犬は吠えるがキャラバンは進む』でのこの作品は、定めなき人間の生とやがて来る死に惑いながらも個体の死が新たな個体の生へとつながる「サークル」の中にいることに希望を見出そうとするのだがしかしそうしたサークルそのものの消滅すら予期してしまい(「太陽が次第に近づいてきてる」)あらゆる根拠が薙ぎ払われた地点に立たされた結果ただ自分の意志だけの力で未来を信じ生きようとする姿(でもそんなことができるのかとも思ってしまっている姿)、を示していると思っている(「『神様を信じる強さを僕に』っていうのは、神様を信じられないってことだ」とは、ライブのときだけ会う名古屋の友人が言ったことだが、その通りだと思う。この作品において、歌い手は神様など根拠にならないことまで見通してしまっていると思う。しかしもし未来あるいは希望があるのなら、それは人間の測りを超えた何かによるもので、人間の言語ではあえて語るなら矛盾した言い方になるか、あるいは「神のみわざ」とでも呼ぶしかない何かであるのだろう。そしてそれが、アルバムでは「ローラースケート・パーク」で驚きと共に告げられている一種の奇跡であり、「ぼくらが旅に出る理由」でもっとも明晰に表現されている希望のあり方だと思う)。しかし歌われるその時々によって、強調される視点やアスペクトが変わり、優しい歌になったり希望の歌になったりする。今回は徹底的に一個人の視点に立って、気まぐれに大きな手で触れられてしまって起きる喪失の体験を凝視するような演奏のように思った。

 

たくみにアドリブを取るスカパラホーンズ(どのソロも、きちんとした終止にたどり着く前に途切れるように終わったのが印象的だった)、ブルース味が強い中西、ピアニカなのだろうか、チャルメラのように薄い音が郷愁をそそる沖、どのソロも素晴らしかったが、驚かされたのは小沢のギターソロだった。たとえて言うなら、涙だけでなくはなみずやよだれまで流している泣き顔のようにぐしゃっと歪んだ、リズムや調性を押しつぶすような演奏だった。技術的洗練など投げ捨て、激しく感情をむき出しにしギターにたたきつけていた。私には、大切な人を失ったことに対する慟哭と、人間に襲い掛かる死すべき運命に対する憤りの音楽のように聴こえた。あるいは、もしすべてが神の手の中にあるのなら、その神に対する激しい抗議の音楽と言おうか。大げさで異様な形容かもしれない。しかしそう語るしかないような異常な演奏だった。小山田なら絶対にこんな弾き方はしない。

 

続く「旅人たち」も深く死を問題にする演奏だったが、「天使たちのシーン」とは表情が大きく異なり、哀悼の音楽であるように聴こえた。その印象は主として、ここで登場したピアニスト、渋谷毅の演奏による。この曲の主題を変奏しながら繰り返すとき、ピアニストは鐘の音を模していたのではないか。弔鐘のようなその音は深く沈んだ悲しみを表現していた。もともとお葬式の情景を歌った作品だが、よりあからさまに葬送の音楽となっていた。そしてそれと同時に、なぜか、遠からずこの世を去るはずの私たちをあらかじめ弔うかのような印象もあった。ここでも演者が紹介されたが、ベースを弾いている方(お名前を失念してしまった。申し訳ありません)の名前の後に「川端民生」の名が呼ばれた。この作品を歌う声は不安定な揺らぎを見せていた。顔は見えなかったけれど、小沢は泣いているんだと思った。

 

そのあと、指パッチン(フィンガースナップ)についての話があり、「大人になれば」の演奏を手拍子ではなく指パッチンで称えることが求められた。アメリカでは、ジャズやポエトリー・リーディングでは拍手ではなくフィンガースナップで賞賛を送るらしい。「大人になれば」がジャズっぽい曲だからなのだろうが、利き腕の右はともかく、左手はなかなか音が出なくて苦労した。オリジナルは軽快さが印象的だが、歌っているうちにいつも燃え燃えになってしまう小沢は当然のように大暴れし、ロッカー以外の何者でもなくなっていた。たしか、約30年前に紅白で歌ったときもそうだった。「夏の日は魔法」はもちろん×3である。