小沢健二『エル・フエゴ(ザ・炎)』について②


 二回目のサビを挟んで、第三連。ここでこの作品の持つ、語り手・語られる相手をめぐる多義性がスプリング・ボードとなり、想像力が大きく跳躍する。「僕が大人になる頃の世界 どんなだろうか 君も一緒にいてくれるだろうか」この言葉を発しているのは誰だろう。そしてここで語りかけられている「君」とは誰だろうか。

 この言葉の字義通りの内容からすれば、語り手は子供のはずである。語り手はまだ大人になっていないのだから。だとすれば、ここで語りかけられている「君」は戦士エル・フエゴであることになる。この世に正義があることを教え、自分を勇気づけてくれる戦士は、僕が大人になったときにもそばにいてくれるのだろうか。僕が怯え、挫けそうになるときにも励ましてくれるのだろうか。「僕が大人になる頃の世界」という言葉の意味からは、子供からのこうした訴えとして理解すべきことが強く示唆され、それ以外の受け取り方を退けようとする。

 

 しかしそれはあくまでこのフレーズだけを取り出し、その意味を理解したときのことにすぎない。このフレーズが置かれている文脈は、それのみを決定的な解釈とし、それ以外の解釈の可能性を排除することを許さない。

 音楽の流れに添って第一連から第二連へと聴き進める中で、聴き手は子供の視点から大人の視点へと移動してきたのであり、それがこの時点では持続している。また、「骨は形 作り保つ 混沌に対抗する」という認識は人称抜きで語られているが、その内容は「骨だけの体で打ち破る 悪しき心や おそるべき憎しみの数々を」に呼応しており、明らかに大人のものだ。そしてこの認識を踏まえるからこそ、「君も一緒にいてくれるだろうか」が、「混沌にみちた世界の中で生きていくときの力を、戦士に与えて欲しい」という願いとして受け取られるのだから、この「僕が大人になるとき」の「僕」は大人でもあるはずなのだ。作品内で発されている言葉の流れの観点からすれば、これが強く示唆される解釈となる。

 それに、よく考えれば、そもそも、いま現在ヒーローを眼差している子供は、「君も一緒にいてくれるだろうか」などとは思わないのではないか。純度百パーセントの子供にとっては、ヒーローは当然そばにいてくれる存在であるはずだ。

 

 だとすれば、この第三連の「僕」は、複数の解釈の両方を受け取らなければならないものとして書かれていることになる。第一連から第二連までには、語り手は誰か、語りかけられているのは誰かに関して、揺れがあった。大人・子供・戦士エル・フエゴのうち、誰が誰に語りかけているのかについて、複数の可能性があった。しかしその複数の可能性は、言わばどちらをとってもよいものとして、どちらかは必ずしも取らなくてもよいものとして開かれている可能性であった。しかしこの第三連の「僕が大人になる頃の世界・・・君も一緒にいてくれるだろうか」は、この複数の可能性のどちらか一方ではあり得ない。子供がエル・フエゴに語りかけているものとして解釈すると同時に、大人が子供に語りかけているものとして解釈せざるを得ない。大人と子供の視点を重ねざるを得ない。

 とすると、この「僕」は大人でありながら、「僕が大人になる頃の世界 どんなだろうか」と考える子供でもある、ということになる。大人が、自分が子供の頃の気持ちを思い出しているのではない。大人として今、ここで生きているこの瞬間、子供でもある。このフレーズはこうした視点に立って歌われているのだと受け取らなければならない。

 

 こう書くと、矛盾したことを語っているように見える。子供とはまだ大人になっていない存在であり、大人とは子供であることを脱した存在にほかならない。それが「子供」、「大人」という言葉の定義の核ですらある。

 しかし一方で、多少なりともものを考える力、反省能力を持つ人間なら、「大人は子供である」ことを、真理だと認めるのではないか。まともに生きていれば、誰だって思うのではないか。「え、まじで「大人」ってこんなもんなの?まるで子供じゃん」、「おれって子供の時から何にも変わってねーな」と。自分の中に子供である部分が残っているなどといった生やさしいものではない。「自分の中に子供である部分が残っている」という認識は、そう認識する自分という大人を確保できていてこそ可能になる。だが、そうではなく、大人である自分はまるごと子供でしかない、そう思わざるを得ないことがある。どうしたら良いか迷うし、失敗して恥をかいてはくよくよするし、簡単に取り乱す。ほんと心細い。誰か頼らせてくれないか。しょっちゅうそう思う。そういう意味で、大人は子供である。そういう子供である大人が、生きていく勇気を与えてくれる戦士を求めている。

 

 この戦士はエル・フエゴであり、それを肩や頬に宿す子供でもある。だからこのフレーズの一つの解釈は、迷える子供である大人が、真っ直ぐに正しさを見つめる子供である子供からの励ましを求めている場面として理解できる。(親としての自分の経験から、そのような気持ちはよく分かる)。しかし、大人は子供であるならば、この戦士は大人自身でもあるはずだ。もう思い出せないけれど、骨の中に確かに蓄積された、正しさを体現する戦士であり、正義をくもりなく迷いなく捉える子供。子供である大人の中には、そうした純然たる子供、子供である子供が宿っている。大人はそうした子供を宿らせた子供でもある。つまり、複数の解釈が一つに重ねられ、「大人は子供である」という認識に到達した後、さらにそこから複数の可能性が開かれるのである。

 こうして大人の、複雑で、明晰に概念化するならば矛盾した語り方をせざるを得ない自己の存在様態を、聴き手である大人は自覚することになる。